忍に感情はいらない。
そんなこと分かっているのに、いつも言っているのに、分かっていた筈なのに。
それはまるで、そう、溺れるような。

04:飲み込まれる緑


佐助が信玄から命を受けることは、稀である。
しかし稀ながら、あるにはある。
今日はその稀にあたる日で、つい今しがた仕事を言い渡され、音なく天井裏を駆けている。

侵略相手国の偵察。

普段それは比較的に佐助よりが任されることが多い。
娘のように可愛がっているを信玄は戦に出したくないらしく、またの能力的に見ても戦場で密偵として活躍するよりも隠密として暗躍するほうが優れているので、必然的に佐助は幸村の傍に居るのが常となっていたのだが。
確かに佐助の方がよりも忍として格段に上であることは事実。
面倒な相手ならば、を使うよりも佐助を行かせる方が得策であることは明白だ。
けれど。
(…ちと、遠いねぇ)
言い渡されたのは、中国毛利。
ここは、甲斐。
(ま、あの策士相手ならを行かせるよりよっぽどいいか)
がしくじるとは思えないが、相手は鼻の利くあの毛利元就だ。
部下でさえも捨て駒としか見ない男、女子供だろうと容赦しないだろう。もし見つかればまず命はない。
第一しくじったことが表沙汰になればどのみち忍の掟により殺される。

は、一度伊達のときに失敗しているのだ。
そんなが生かされているのは偵察していた伊達に気に入られ、信玄や幸村が失敗の事実に気付いていないからで。

(仕方ない、ね)
屋根裏を、飛び出し―――。


「佐助?」

木の上で寝ていたが目を覚ましたのは、ふいに佐助の気配がすぐ傍でしたからだ。
瞼を上げてみればやはり思ったとおり枝同士触れ合うほど近くの枝に、佐助が膝に肘をおいて頬杖をついている。
「ちょっと無防備すぎなんじゃないのー?俺じゃなかったらどうするつもりよ?」
「殺気や敵意ならすぐ分かるよ」
手で目をごしごしとこすりぼける視界をはっきりさせた。
が、まだ完全には目が覚めきっていないのかトロンとした目で佐助を見返す。
今いつもより少し幼げな“少女”の域を出ていないようなを見て、誰が忍と―――しかも、舞鬼と恐れられる真田忍隊の副長だと思うだろう。
…いや、格好だけは立派な“くノ一”であるのだが。
「あのさ、俺しばらく偵察で帰ってこないから真田のダンナよろしく」
「はい―――っ、ええ?」
パチリ、と完全に眠気は覚めたらしくは瞬きして佐助へピントをあわせた。
「どこまで?」
「中国」
「遠いよ」
「そ、だからしばらく帰れないって言ったでしょ」
寝ていた身体を起こし太い枝にきちんと座り幹に背を預けると、トンと軽い音を立て佐助が同じ枝、つまりの目の前へ飛び移る。

「なに、寂しがってくれちゃったりすんの?」
ずいとの顔を下から覗き込むようにして近づけ、おどけたような口調で言った。
「…佐助がいないのは寂しいよ」
佐助が出されるということは、今回の仕事はそれだけ危険が伴うということだ。
彼にその手の仕事の話がいく事で察するくらいにもわけはない。どちらかというと佐助もも頭の回転は速い部類に入る。
「…」
いつになく真剣な佐助の声色に、は疑問符を浮かべた。

「余計な感情は捨てた方がいいぜ、ちゃん」

佐助がをちゃん付けで呼ぶときは、決まって『刷り込み』をするときで。
は毎度背筋がゾクリとする。
けれど、
「ちゃんと帰ってくるから、さ。俺が居なくたってダンナも大将もいるんだし寂しくなんかないだろ?」
ポンとの背中を押して胸へ倒れこませ抱きしめる佐助は、いつもと全然変わりなくて。
どちらが本当の佐助なのか分からなくなる。

きっと、どちらも本当の猿飛佐助なのだ。

はおずおずと佐助の背(といっても、正確には横腹を少し背後へ過ぎたあたりだが)へ手をまわし、服をぎゅっと掴む。
…寂しい、のだ。
幸村が居ても、信玄が居ても、佐助が居なければ、寂しいと思ってしまうのだ。
―――たとえ3人の内誰が欠けても、そう思ってしまうのだろうけれど。

「待ってるから、すぐ帰ってきて」
「りょーかい」
にこ、とは微笑を浮かべる。
(仕事に出るときはせめて笑顔で。)
本人がそう思っているのかどうかは知らないが、佐助は外へ出るときにいつもこの笑顔を見ている気がする。
「も俺が見てないからって、ご飯食べ過ぎてお腹壊さないよーに。」
「…壊さないよ」
「あ、ダンナの団子は一日」
「5本でしょ」
「お二方のアレは始まって」
「一刻で仲裁に入る」
「ダンナからは極力目を離さないようにね」
「…用便のときは」
女の子がそんなこと言わないの。出入り口だけ見張っときなさい」
「なんだか佐助お母さんみたいだね…!」
「…言わないでそれ、すっごい悲しくなるから」
「佐助ー、ー?」
「…ダンナ?」
「幸村さんだ」
「佐助、こんなところに…」

上を見上げた幸村は絶句する。
「「あ」」
姿を見られた忍二人。佐助はしまったと冷や汗を一滴流し。

「はっ…はれんちであるぞ佐助ぇ―――!!


忍は感情を捨てなければいけない。
分かっている。理解している。割り切っている。
自分ではそう思っていた。
中国へ向かう途中、記憶を辿り考える。

『トモダチになろうよ、佐助』

それは随分昔の記憶。
それなのに、やけに鮮明な。

(…らしくないねぇ)

まるで病のようにゆるりと。
まるでぬるま湯のようにやんわりと。
まるで蝕まれるように、思考が、感情が、想いが

飲み込まれる。

(早く帰れたらいいけどな)
笑顔のトモダチを思い浮かべて佐助は口元に笑みを浮かべ、中国へ駆けた。



雰囲気的に、飲み込まれる緑→誘われる赤。