その女は、酷くキツイ眼をしていた。

キツイ、と言うより警戒しきって睨んでいるというか。
その警戒はこの場にいる人間だけに向けられているものではないな、と北見は何となく思った。
しかもそれは、初めての職場で緊張しているだとかほぼ職員全員と言う大勢の前だからだとか、そういうレベルの問題ではない。
もっとずっと広い対象物で、習慣的な構えのようなものを感じさせた。
「今日から外科で働いてもらう子だ」
ぱすっと軽く安田が女のピンと伸びた背を叩く。
何の威圧感もない安田潤司のいつもの行動。
しかし、女の肩が微かに跳ねたのを北見は見逃さない。
そこで先程から感じていた警戒心の正体を悟る。
おそらく、怯えて―――いるのだ。
威嚇し攻撃に構えるその様は、虎と言うより猫の様な印象を北見へ与えて。
「です」
夏の風鈴の様に通る声は北見の予想していたよりも遥かに凛としていた。
口元にすら笑みも浮かべずに腰を折ってお辞儀する。その様はどこか品があって美しい。
「先生は3年程NGOで活動してて、つい最近日本に戻ってきたらしい。専門は外科っつうことで―――北見、お前頼むわ」
通常、指導医はその科の医師達の話し合いによる合意で決まることが多い。
それが院長からの指名とくれば何かしら理由あってのものだと自ずと察せられた。
「―――俺は厳しいですよ」
にというより安田に向かって北見は言う。
医師としての能力差を性別で考えたわけではないが、目の前の、まだ女に成りきっていない印象を持たせる小娘に北見の指導が耐えられるとは到底思えなかったのだ。
それは、話を聞いていた他の人間の思いも同じで。
「扱き甲斐あるぜ」
ニヤリと口端を上げる安田に、それで構わないのなら―――と北見は右手を差し出す。
「北見柊一。専門は心臓外科だ」
は、差し出された右手を一瞥して頭を再度下げた。
「よろしくお願いします」
北見はやり場のない右手を下ろし訝しげに眉を顰める。
だが真っ直ぐに北見を見上げてきた眼差しは、鋭く、強く、凛として。
北見を睨むように見据えた。

前言を撤回する必要がある。
猫なんて可愛らしいモンじゃない。
この女は。
まるで黒豹だ―――。


肌寒い。そんな気がして北見は閉じていた瞼をうっすらと持ち上げた。
机にうつ伏せた状態になっていた北見の頬は書きかけの書類と自らの腕を下敷きにしていて、仕事中にうたた寝してしまったらしいことが手に取る様に察せられる。
目の焦点が合わないながらもゆっくり上半身を起こすと、肩からずるりと白衣が下がった。
しかし北見が枕にしていた両腕にはきっちり白衣が通されている。
だとすればこの白衣は誰の物だろうか。
胸の位置に留められたネームプレートを確認すればそこには『』の文字がある。
おそらくが医局に戻ってきた時寝ていた北見に風邪をひかないかと案じてかけてくれたのだろう。
だからか―――と北見は妙に納得した。
彼女の白衣になんて包まれていたから、あの頃の夢を見たのだと。
(…懐かしいな)
ふ、と口元を緩めて北見は微笑した。
久しぶりにあの眼で睨まれた。
睨んだと言ってもには日常的に終始警戒する癖があるからそう見えるだけなのだけれど。
時計を見ようと顔を上げた時、廊下からダンロップのシューズの足音が医局へ近付いてくるのが聞こえた。
規則正しいが堅苦しくはなく、軽やかさすら感じさせる歩き方は北見の知る限り院内には一人しかいない。
湯気の立つコーヒーカップを2つ持っていつもの様に形の良い眉を吊り上げたが北見の姿を視界に入れると、いつもの様に表情を消した。
の場合、無表情は必ずしもマイナスの意味を持つわけではない。むしろどちらかと言えばプラスイメージに近い。
喜怒哀楽の感情と表情。そのどれもが彼女は一般人とは一致しない。
そのことを北見はこの数年で熟知していた。は北見の前でのみ日常的に警戒を解いていたわけで。
「起きてしまったんですか」
驚き半分、呆れ半分。そんな声色で話しかけるに北見はそんなに熟睡していたのかと逆に自分が驚き、呆れた。
「…今何時だ?」
「10時です」
「もうそんな時間か…」
勤務時間はとうに過ぎたと言えどすることは山の様にある。
一度体を伸ばそうと立ち上がった北見に、は片方のコーヒーを「どうぞ」と手渡した。
北見は黙ってカップへ口付ける。のいれるコーヒーが北見は一番好きだった。自分がを指導してきた間に彼女の一番磨かれたものと言えば手術の技術や読影よりもコーヒーのいれ方ではないかと思っているくらいだ。
ふと、気が付いて北見はカップをデスクの上に置き椅子に掛けられた白衣を手にとり、の肩へふわりと掛けた。
思えばの白衣は先程まで北見の背へ掛けられていたのだから当然はブラウス姿で歩き回っていたわけで。
「すまん」
「いえ、別に」
「寒くなかったのか?」
「寒かったですよ。それなりに」
「…馬鹿か、お前は!?」
は何故怒鳴られたのか判らなかった。
「風邪でもひいたらどうする!」
「貴方にも言えたことでしょう」
「俺のことより、自分のことを心配しろ!」
「私の代わりはいくらでもいるんです。でも貴方の代わりはいないでしょう」
それは以前にも言われた言葉。
やはりこの女は何も判っていない。
自分で思っているより遥かに、が周りから求められているということを。
「何度だって言うがな、お前の代わりも何処にもいない」
「あ、雪。雪ですよ北見先生」
「おい、話を…」
「ほら、雪」
窓に背を向けている北見には判らなかったが、確かに四角く切り取られた外にはちらほらと雪が降っていた。
雪ですよ、ともう一度繰り返すには既に北見との会話は優先順位以下にある。
「明日は積もりますかね」
「…どうだろうな」
北見へ背を向けて窓の外を眺めるに北見は溜め息を吐くと、冷えて微温くなったコーヒーへ口付ける。

そろそろ北見がどんな想いでに接しているのか気付いてもいい頃だろうに。
どうにも彼女は自分へ向けられる好意に鈍い節がある。

「お前は自分をもっと大切にしろ」

そっと手を伸ばして指で触れたの冷たい頬に思い知らされる。
この女は、誰かが守ってやらないと上手く生きられないのだと。


昔話/祈り

三人称書きは主人公を苗字にするか名前にするかで迷う。
結局過去編は苗字、現代は名前で落ち着きました。