霜月。
11月の旧暦だが古典文学においては十一月とも書き霜月と読む。
その名の通り霜の降り始めを意味し、つまり丁度今頃を指す訳であるけれども現代の十一月と暦の上での霜月はおおよそ一月ズレていて、元は同じ意味を表した言葉は今や完全なるイクォールではない。
防寒具の着用が許可された。
予定より早くそれが出されたのは学校が予想していたより早く寒波が到来してしまった所為で、冷たい風から体が守られるのは有難いが結局広く考えれば受験を控える3年生にとってはマイナスのことでしかなく。
は黒いマフラーに顔を埋めて、革の手袋で覆われた両手に息を吹きかける。色気はないが革の方が毛糸よりも暖かいのは確かだ。
マフラーも同色のカーディガンもカシミヤ。の一見厳格な父親はやはり中身も結構な厳格だったが娘のこういうところには金を惜しまなかった。
一般的な『家族』の形としては欠けているものの、二人は中々に上手くやっていたのだ。
ポケットの中のカイロで指先を温め袖をそっと捲り、今の時刻を確かめる。
4時30分。スーパーのタイムセールには間に合いそうだ。
今日は寒いからシチューにしよう。バス停から30メートル程のところでそう考える。
バス停に人の影が見当たらないところから推測すると既にバスは出てしまっているらしい。
無人のそこにはペンキの少し剥がれたベンチと、ジュースと煙草の自動販売機が1台ずつ寒さに耐えながら行儀良く並んでいるだけで。
ビュウビュウと乱暴に吹く風がの黒髪を乱してゆく。夏から幾分伸びた髪は既に胸のトップあたりまで長くなっていた。
風が耳元で鳴りは両手で両耳を塞ぐ。もう風の音は聞こえない。
代わりにゴウゴウという比較にならない程破壊的な音がの耳へフェードインしてきた。
バス停まであと15メートル。音はこちらへ近付いてくる。
バス停まであと10メートル。そのバス停へガソリンで走る大きな二輪車、いわゆるバイクが留まる。
ヘルメットをしていないその男には見覚えがあった。
手が少し冷えてきたので上着のポケットへ突っ込む。
バス停まであと5メートル。見覚えはあったが(更に言えば面識もあったが)自分の友人でなければ話しかけるほど親しくない、それどころか友好的関係だった記憶もない。
そう考えたはこのまま気付かぬ振りして無視しようと決めた。
このまま通り過ぎたかったが暫くバスは来そうにない。
バス停まであと2メートル。男は煙草を買いに寄ったらしく腰を屈めて取り出し口から煙草の箱を抜く。

眼が合った。

「…お前…湘北の…」
「…どう、も」
この男と最後に会ったのは夏の全国選抜の前だ。
確か、朧な記憶ではあるが、鉄男…と呼ばれていたように思う。
はベンチに腰を降ろし、行き場に迷う足を組んだ。
斜め上から視線を感じる。外れたかと思えば「おい」声を掛けられ、流石に無視するわけにいかず顔を上げれば、珈琲の缶が降ってきた。
「っ、え、あの」
慌てて手袋をはめたままの手で缶をキャッチすると革越しにじわじわと温度が伝わる。これをどうしろと…!


1年生、三井がまだ入院していた頃。
三井と同じクラスだった木暮についてよく一緒に病院を訪れていた。
それは学校へ提出しなければならない課題だったり、書類だったり、伝達すべき連絡だったり、頼まれた雑誌だったりと用件は様々で。
時には練習を抜けられない木暮に代わって、買出しの合間を縫って一人で訪れたことも稀にある。
そんな稀な日。
通い慣れた病院、通い慣れた病室へ足を向け見慣れたドアをノックしようとして、中の部屋から聞こえる笑い声が一つでないことに気付いた。
テレビから流れるような機械化されてしまった音ではなくもっとクリアに生な人間の声。
それでもこのまま突っ立っているわけにも行かず一つ深呼吸してドアをノックする。
「失礼しまーす…三井君?」
窺うようにゆっくりとドアをスライドさせて顔を出せば、ベッドへ起き上がっていた三井が「おー」と返事をして。
サイドチェアーに座っている大柄な男が首だけで入口の方を緩慢な動作で振り返る。真っ黒な瞳と眼が合い一瞬心臓が跳ねた。
少しぼさっとした黒髪とその風貌から俗に言う『不良少年』の類に近い男。三井の家族の様には見えない。
2人の並ぶ姿はどこかアンバランスな印象を持たせ。
「悪いなわざわざ」
「んん、買出しのついでだから…」
頼まれた雑誌と宿題を渡しじゃあ、と短く切って病室を出、深く息を吐いて壁へ背を預ける。
妙に疲れた。
つまり鉄男とは、以前会っていたわけで。


「あの頃からなんか嫌な予感はしてた」
一人分のスペースを空けて座り買ったばかりの煙草を吸う鉄男に、投げられた珈琲を冷ましながら落とす様にが言う。
「ひーくんがどっか知らない世界に連れてかれる気がした」
事実、三井は普通の高校生という区分からは逸れてしまうわけだが。
きっかけは別にしろ鉄男という知り合いがいたことも三井にとってはそっちの道へ走った要因の一つではある。
だからは鉄男があまり好きではない。
三井の友人ということは変わりないし鉄男という人間を深く知っている訳でもないので毛嫌いまではしないけれど。
鉄男と三井、2人並んだ姿が酷くアンバランスで、不安定で、不安にさせて。
「付き合いだしたんだってな」
「ええまあ…誰に?」
「安心しろ、三井じゃねぇ」
「別に不安にもなりませんけど…え、本当誰から?」
「カマかけてみた」
「………」
「………」
「………バス来たぞ」
「じゃあ、珈琲ご馳走様でした」
「三井ひーくんにヨロシク」
「さよなら」


昔話をしようか


三井に対する呼称は三井君→三井さん→ひーくん に。