194・50年代の事件に関する起首



1940年 ニューヨーク

「フィーロってもうエニスとキスしたのか?」

なんの前触れもなくクレアから放たれた言葉にフィーロは食べかけだったパスタで盛大に咽せた。
ぎょっとしたは咳き込むフィーロの背をさすってやり、ラックは「いきなり何言ってるんですかクレアさん」と呆れたように言う。
元々とラックが2人で食事していたところに珍しくクレアがこっちに来ていたということがあり、途中で巻き込まれたフィーロを連れて乱入しこの状況に至る訳で。
その時のラックの複雑そうな顔をは見なかったことにし、フィーロは申し訳なさそうに眉を下がらせ、当のクレア本人はまったく気付かなかった。なんとも迷惑な話であるがなにせ相手は「世界は俺にとって都合良く出来ている」と豪語する人間であるからに致し方ない。
今となっては外見はクレア1人が10程年をとってしまったが4人の関係は殆ど変化がなかった。
「その様子じゃまだみたいだな」
「ほっとけよ!」
「俺もまだだ!」
「お前もかよ!」
すっかりクレアのペースに乗っかっているフィーロには苦笑しながらグラスを傾ける。
フィーロがエニスと同棲を始めてもう10年近くたつと言うのにキスはおろか告白すらまだなのだから周りも少し心配になる。まったくもって余計なお世話なのだが。
「いいんだよ、俺達はそれで…焦ったって仕方ないしな」
「それにしても10年はのんびりしすぎだと思いますけどね」
「うっ……そ、そういうラック達はどうなんだよ!」
「は?」
まさか自分達に振られるとは思っていなかったのかラックの口から間抜けな声が漏れ、は心臓をドキリとさせる。
「や、こういうのって人に言うものじゃないから……」
平静を装って言葉を濁すは、テーブルの下、ブーツでフィーロの足を踏みつけ場を誤魔化して。
10年付き合ってキスがまだなど言っている友人2人(特にクレア)の前で、実は告白より先にベッドから始まった関係だなんて口が裂けても言えない。もし伝わったなら列車の線路で削殺されかねないと1931年の事件の際に居合わせその目で実際に見たくもない惨状を見たは思う。
たとえクレアがガンドール兄弟に多大な恩を感じていて兄弟の不利益になるようなことは絶対にしないと知っているとしても(せいぜいこうしてデートの邪魔をしに来るぐらいで)。


     ◆     ◆     ◆


「本当に送っていかなくていいんですか?」
「ん、大丈夫」
「送ってもらえよ。お前ちょっと顔色悪いぞ」
「平気だって、ラックさんもフィーロも心配性。むしろクレアの方が心配」
フィーロの肩を借りてうなだれている赤髪を撫でると突如伸びてきた手がの手を遮って「こういうのをしてもいいのはシャーネだけだ」と赤いんだか青いんだか判らない顔色で宣う。
妙なテンションでハイペースに呑んでいたものだからすっかり悪酔いしてしまったようで気分悪そうに唸って。
「情けねえなぁ」
「まあ、普段が酔っ払いみたいな人ですから」
「葡萄酒がワインに酔うっていうのも一種のナルシズムみたいだよね」
「…覚えてろよ」
「じゃ、またね」
ひらりと3人に背を向けるとの膝ほどまである長い黒髪が風に揺れる。
どこか頼りない雰囲気で、それでもしっかりとした足取りで歩くを見ながらフィーロはクレアを支え直し「悪かったな」と苦笑した。
「折角のデートだったのに」
「気にしてませんよ。どうせクレアさんが無理矢理巻き込んだんでしょう」
「おい、それじゃ俺が空気読めてないみたいじゃないか。あとフェリックスな」
「それにしても…本当に送ってかなくて良かったのか?ラック」
強がる女の顔色は青いと言うよりも白いと言う方が近い色をして、時折額に手を当てて溜め息を吐く様子はどうみても平気そうではなく、きちんと家まで何事もなく帰れるのか甚だ心配なのだが。
「一度言い出したら聞かない人ですからねぇ…。あまりしつこく言うと拗ねてしまいますし」
「そういうとこも昔から変わんねえな」
「結構機嫌取るの大変なんですよ?」
大丈夫だと強がった皮を被って振る舞う彼女なので、こういうときは見栄を張る余裕のなくなるまで放っておくのが一番いいとラックは経験から学んでいる。元より素直に弱音を吐ける人間ではないのだからその程度の長期戦で挑めないようではと付き合うのは難しい。
「…まあ…大丈夫でしょう、なら」
「随分信用してるんだなぁ」
「いざとなれば私より彼女の方が強いですしね。情けないことに」


     ◆     ◆     ◆


頭が痛い。
慢性化している偏頭痛が朝から酷く、少し熱っぽさも感じて。
やはり秘書の男を迎えに寄越そうといつも連絡用の電話を置いている自組織系列の店に入るべく裏路地の通りへするりと身を通す。
ズキズキというよりガンガンと鈍器で殴りつけられるような痛みに辟易しながら足を進めると、向かいから歩いてきた老紳士と肩がぶつかって。
「失礼」
お世辞にも広いとは言えない道だ、その上平行感覚の危うい今なら接触があってもおかしくないと、頭痛も手伝って普段にはあるまじき軽視。

の胸にはナイフが生えていた。










暗転。










     ◆     ◆     ◆


翌朝 ヴァルハラート・ファミリー事務所

「お、郡司。はよ」
どことなく爽やかな中年を思わせる同僚から声をかけられ、ヴァルハラート・ファミリーの秘書と言う位置に収まる男はもう何年も寝不足を経験しているような凶悪な表情で挨拶を交わす。
同僚と言っても郡司の方が何年か長く組織にいるのだが、そのあたりのことはあまり気にしない男で郡司としては話をしやすい。なにせ見た目だけは郡司と年齢さを感じさせないのだから妙に遜られるのは違和感があった。
「うちのボスは昨日帰らなかったのか?」
「お嬢さんの気紛れだろ。大方周りから心配されすぎてへそ曲げたんじゃないのかね」
「そういやさっき届け物が着いたよ。不気味なことに棺桶っぽかったからボスに任せようと思って部屋に置いてある」
「…馬鹿、怯える」
ファミリーの事務所であり何人かの居住スペースであるこの邸宅の角に位置する一室。
そこへ入ると本来頭領の座るべき革張りの椅子は無人のまま。
部屋の殆ど中央の場所には成る程確かに黒塗りの棺桶が静かに佇んでいた。
それを一瞥すると郡司は溜め息を吐いて蓋に手をかける。
意外な程すんなりと蓋は動き、床へずれ落ちて。

むせかえるような薔薇の匂い。
長い黒髪の壊れた不死者が死んだ様に紅で包まれていた。


→承前
続きます。