194・50年代の事件に関する承前



1920年 ニューヨーク某所

の父が死んだ時、涙を流さなかった彼女をキースはぼんやりと覚えている。
親子仲は悪いようには見えなかったので悲しくないわけではないだろう。
金銭的に葬式をする余裕もなく、心ばかりの粗末な墓の前で唇をきゅっと真一文字に結んだの目は、気付いた時にはもう赤く腫れていた。
結局キースの記憶にあの時暫くの間彼女の涙は残っていない。
誰にも見つからない場所でひっそりと泣き暮れていることを知っているだけだ。
キースだけが、知っていた。

自分達の尊敬する父がを呼び出し2人きりで話をしていたのは、彼女の父が死んでから1週間と少しした昼間の事務所だった。
マフィアの事務所という場所だからか、どこか緊張した面持ちで挙動不審だったをなんとなくキースは覚えている。
孤児となった彼女は引き取り先(個人にせよ施設にせよ)が見つかるまで短い間だったがガンドール家に居候していたので話をするならば家でもできたが、そういうところでは拙い話なのだろうと薄々感づいていたキースは、当時兄弟の中で唯一事務所への出入りを許可されていたということもあり、こっそり聞き耳を立てたのだ。
「を養女に欲しいと言っている人がいるんだよ」
父から発せられた養父を希望している男の名前にキースは思わずぎょっとする。
まさかと一瞬疑ったが父がそんな冗談を言う人間ではないと判っているので事実なのだと理解。
それは、マフィアの中でも随分大きなファミリーのボスの名で。
「嫌だったら断ってもいい」
そうは言うものの相手は大規模組織の首領だ。父が断ることのできない立場にあることはキースもも判っている。
「…どうする?」
「行き、ます」
まだ戸惑っているような声色の答え。
キースはがもっとごねると思っていたのだが、よくよく考えると彼女が自分達の父を相手に我が儘を言うことも特別困らせることもなかったのだ。


     ◆     ◆     ◆


1940年 ガンドール・ファミリー事務所

『キー兄、みんなと離れたくないよぉ』
『ひとりは嫌だよ』
『なんでお父さん死んじゃったの』
あの日、押し入れの中で泣きじゃくっていたを見つけ疲れて眠るまで頭を撫でてやったことを不意に思い出したキースは冷静にトランプケースの蓋を取り落とした。
弟2人がこちらを向いたがキースは無言で蓋を拾い上げ何事もなかったかのようにトランプのシャッフルを始める。
「ボス、ボス」
ノックと共にどこか焦っている風な男の声。まだ若い雰囲気のところを聞くと新入りなのだろう。
「ヴァルハラートファミリーだっていう男が来てます」
ヴァルハラート・ファミリー。
ニューヨークを取り仕切る5つの大組織で、今し方キースの記憶の中で父の発した名前でキースは表情に出さず合いすぎたタイミングに驚いた。
現在ボスの椅子にはガンドール兄弟の幼馴染みであり三男の恋人である少女(といってもそれは外見だけの話であって実際の歳は三十路前なのだが)(そして外見も少女と呼ぶより女性と形容する方が正しいような中間の雰囲気なのだがキースの印象はどこまでも少女で止まっている)だ。
そうして部屋へ入ってきたどこか野犬を思わせる男は、確かにそのファミリーの構成員で。
鳴碕郡司。
の秘書、または世話係で彼女が唯一人間に対して人間的な扱いをしない男。
この男が一人でここを訪れるのは珍しい。
「今日は一人なんですか?」
「お嬢さんがいれば真っ先に来るだろう」
何を今更と言わんばかりにトカゲの様な目を歪める鳴碕はスーツの内ポケットから3枚の紙片を取り出した。
「この男達がガンドールとマルティージョのシマを出入りしてる。捕まえる許可をもらいにきた」
紙片には少々乱雑だが判りやすい人物画が描かれている。
ラックが「見ない顔ですね」と呟く横からベルガも似顔絵を覗き込み、同じく「見ねえ顔だな」と言う。
「最近こっちにきたらしい何でも屋だ」
「理由を言っていただかないことには何とも」
不可侵協定を結んでいるにせよ当然のことをラックが告げると鳴碕は初めて言いどもり渋い表情を見せた。
「面に車を停めてある。マルティージョのフィーロ・プロシェンツォも一緒だ」
親指を立て店の面を指指す鳴碕の口調は極めて冷静で落ち着いていたが、どこか怒りに近いものがじわりと滲んでいて。
「来れば判る」
嫌な予感がした。



高級感のある黒塗りの車の後部座席には確かにフィーロが乗っていた。
こちらも全ての事情を聞かされた訳ではないらしく釈然としない顔色を隠していない。
結局何も聞かされぬまま後部座席へ並んで座り、運ばれたのは市街地から外れたこれまた大きな屋敷だった。
ラックやフィーロも何度か訪れたことがある、ヴァルハラートファミリーの事務所兼の自宅、に近いもの。
喧騒を避けたらしいヴァルハラート先代ボスの意向で郊外へ建てられた事務所は外見だけなら到底マフィアの事務所には見えず、品の良い落ち着いた家主を連想させる。

首領室へ入った瞬間フィーロは背筋がゾッとした。
目の前で革張りの椅子に深く腰掛け自分達へ視線を注ぐ彼女は別段変わったところもない。向けている表情が笑顔でないというだけでどう見ても幼馴染の・ヴァルハラート本人だ。
というのに、なんだ、この、ゾクリと肌の粟立つ様な違和感は。
「おい、…?」
フィーロが心配した声色で話掛けるが反応はなく、変わらない瞳がじっと見つめてくるだけで。
「………!?どうしたんだよ、おい!!」
フィーロが駆け寄り余裕に欠けた様子での細い肩を掴み前後へ揺さぶったが、距離の縮まったフィーロを見上げるでもなく、真っ直ぐ正面を向いたままは制止している。
なんとも言えない悪寒の正体。
の空を映したブルーの瞳に、感情の一切が宿されていない。
糸の切れた人形の様に弛緩した体は確かに温かく彼女の温もりを感じるというのに、彼女の心はここにない。
は不死者だ。フィーロやラックと同じように、死を迎え入れることのできない体だ。
けれどいかに不死者とはいえ防げるのは肉体の死のみで、精神の死はどうしようもなく。

、とラックの唇が小さく震えた。


     ◆     ◆     ◆


事務所へ戻ってきた末弟から状況を報告された兄2人の反応はそれぞれ普段らしい反応だった。
ベルガは怒鳴り散らして机を一つ破壊し、キースは無言でトランプを弄る手を止める。
結局ラックは、ガンドールのシマで捕縛した場合、ガンドールの事務所内(正確にはチックの仕事場)で詰問すること、そしてその場には自分を立ち合わせることを条件に鳴碕と交渉してきたらしい。

キースはへ同情はしない。
彼女とてマフィアで、その上大組織のトップで、自分達よりもよほど命を狙われたことも逆に殺したこともあるのだろう。
闇の中へ身を置くことを自分で選んでそこへ立っているのだから当然今回のような目に合うことも覚悟していたはずだ。小規模ファミリーの一構成員とは立場が違うのだから。
それを理解していることを踏まえ、キースは幼馴染を襲った男達へ激しい怒りを感じていた。
理屈と感情は別物だとつくづく思う。道理だとか、筋だとか、そういうものを差し引いて妹の様な彼女を傷付けた人間に対して同じことをしてやりたいと。

の閉じ篭った世界には、誰か、泣いている彼女の頭を撫でてやる人間がいるのだろうか。


←起首
まだ続きます。