陵南に勝った湘北は決勝リーグを2勝1敗の神奈川2位で念願の全国への切符を手に入れた。
楓は楓で、安西先生の家から帰った後やけに燃えていて私は嬉しいのだがそれを通り越して恐ろしささえ感じる。
部活前に楓のストレッチとマッサージを手伝っていると赤木さんの気合いの入れようの程度が察せられて私は小さく笑みを漏らす。
張り切っているのは楓だけではないのだと再認識。
それでも、楓の熱の入れようは尋常ではないのだけれど。
「気合入りまくりだな、ゴリ」
「ああ。あと一ヶ月、IHまでに気力体力共に最高の状態に仕上げるんだ」
桜木君とその前屈を手伝っていた木暮君の会話が耳に入ってくる。
この一ヶ月でどれくらい楓のスタミナを増やせるのだろうか。
それを考えると少し頭が痛くなってくる。
そんなことを考えいたら突然頭に痛みが走った。
楓に殴られたらしい。誰だこいつをこんな乱暴な子に育てたのは。…私か。
「なんで殴られたんだ、私」
「…なんか…悪態を吐かれた様な気が」
鋭いな。
「この一ヶ月が大切だぞ、桜木」
「おうよ。特におめーは基礎がなってねーからな、キソが」
「そーそー。普段の生活をきちんとすることから始めなきゃな」
「なんだとてめーら!!」
火に油を注ぐような三井さんとリョータの発言に怒った桜木君はまるで闘牛だ。
なんとか宥めようとしている木暮君が少し不憫に思えてくる。
「気にするな桜木、皆それだけお前のことを頼りにしてるってことさ」
「トーゼン!天才桜木湘北の星!!」
「俺は頼りになんかしてねーぞー」
「ま、オマケだもんな。湘北の」
言うだけ言って桜木君から離れる二人の背を交互に見ながら、桜木君は思いついたように悪い笑顔。
「ミッチーは精々途中でバテないようにスタミナをつけることだな!リョーチンはこの一ヶ月であと10センチ背を伸ばす」
「なんだと!?」
「できるかー!そんなこと!!」
怒り狂う2人と調子にのる1人。これら3人の問題児軍団を宥める木暮君には心底同情する。
「まあ、リョータの身長はともかく、三井さんのスタミナはね…」
「…どーすんだ?」
「何こそこそ言ってんだてめーらっ!!」
地獄耳だよこの人。
12:星空のスマイリング
「あ―――疲れたっ!」
「水〜〜〜っ!」
練習が終わってすぐ水道へ駆け込む部員達を見て彩子とは顔を見合わせて笑った。
滝の流れる様に溢れ出る汗から相当な運動量ではないことが察せられる。
まだ自主練習を続けるつもりの1年生にボールを渡すとはボール籠を片付けた。
ガランガランと音を立てながら転がる籠のコロはそろそろ手入れが必要なのかもしれない。
「たまんね」
「死にそーだぜ…!」
「たまんねー」
頭から水を被る男達にの唇から苦笑が漏れる。
水道の掃除は大変なのだ。
まずざっと洗って殺菌しなければならない。そのあとは水滴を残さず拭き取る。
毎日掃除しなければ水回りから悪臭が出るし、排水口にぬめりが発生したりする。
バスケ部が遅い時間まで活動を許可されているのは、部員の多くが成績優秀で素行良好であり、また体育館や部室の手入れ、使い方が丁寧という教師からの信頼が厚いためだ。
その背景にはマネージャー2人の影ながらの努力と労を惜しまぬ手間があったのである。
呼吸を荒くした流川を見るとは今日の流川のプレイを思い出した。
安西に確固たる目標を与えてもらったおかげでプレイにもハリがでたのだが、はまだ流川が安西に言われた内容を知らない。
単に流川が言うタイミングを逃しただけなのだが流川がに隠し事をするのはこれが初めてだ。
元来自分から多くのことを語る流川ではないが、はどこか姉離れされたような寂しさを覚えた。
「どけよ。先輩が呼んでるぜ」
「ああ!?」
桜木を押し退けて入った流川はおもむろにシャツを脱ぐと水道で雑巾の様に絞る。
まさしく『滝の様に』シャツから流れ出た汗に桜木は吃驚したが、すぐに自分も脱ぐと全力でシャツを絞りあげていた。
宮城が「はりあうなよ」と呆れて声をかけるが何が何でも流川に負けたくない桜木は更に力を入れてシャツを絞る、が。
ビリッ、と小さな音。
「ぐあ…!?」
「どあほう」
見るも無惨な姿へ変貌を遂げたシャツだった布はもはや到底身に纏うことは不可能だ。
更に追い討ちをかける流川の罵倒が桜木の心を強くえぐる。
「桜木ーっ!桜木花道ーっ!!」
「うっきた!」
「何よきたって…さあ今日もやるわよ!」
ハリセンを持って現れた彩子は意地悪そうに笑って桜木を再び体育館へ引っ張っていく。
初心者の桜木には未だドリブル、パス、シュートの基礎練習が義務付けられていた。
こういうバスケの指導は彩子の担当で、は大概が救護やその他の雑用が仕事だ。
試合の記録は割と交代でつけている。
何故こういう位置付けになったかというと、単にの指導が厳し過ぎたということで済んでしまう。
幼い頃から流川のプレイを側で見続けていたには技術の平均水準が高いのだ。
「またキソか、毎日毎日キソキソキソ」
「コラァ口ごたえすんなっ!」
「ぐっ…」
文句ばかりが口をついて出る桜木に宮城の蹴りが入った。
羨ましいのだ。彩子につきっきりの指導を受けられる桜木が。
清々しいほど判りやすい嫉妬である。
ぶつぶつと文句を言いながらドリブルの練習をする桜木を監督する彩子の傍で一緒に立つ宮城は頬を染めていて。
本当に判りやすい好意だ。
はそんな宮城が少し羨ましい。
にそこまでの積極性はない。好意を隠そうとは思わないが、あからさまに伝える勇気がない。
いつだって相手からのアクションを根気強く待つ。
は、元より変化を望むタイプの人間ではないのだ。
「先輩…」
「おう?」
三井は唐突に話しかけてきた後輩が流川だと確認すると、珍しいなと思いながら話を聞く。
「なんだ流川?」
「1ON1の…相手してほしいんすけど」
やけに気合いの入っている流川に違和感を感じながら三井は考える。
何があったのか、また何かあったのかどうかも知らないが、とにかく目の前の後輩は鬼気迫る勢いで成長と結論を欲しているらしいことは判って。
「ま…いーか…」
彼是と考えるのは性分ではない。
そしてまた三井も知りたくなった。
身を持って結果を持って、流川の実力と、自分と彼のどちらが上なのかを。
三井は不敵に口元を歪ませて笑う。
「お前とか…おもしろそーだ。どっちが湘北のエースか決めとくのもいいかもな」
エースという単語やコートの真ん中に立つ実質上の湘北エース2人に周りは注目を1点に集めた。
「来い」
もらった、と三井は思った。
正確な軌道を描いてボールは三井の手を離れるが、指先がボールから間を開けた瞬間流川の掌がそれを弾く。
「くっそ〜〜〜!!」
両者とも呼吸を荒くして肩で息をしており、これでそれぞれオフェンスを同じ数だけしたがまだどちらも1本もシュートを入れておらず。
一度水を被った三井の体はまた汗でぐっしょりと濡れている。
傍目からは互角のように見えたが、実際に押しているのは流川の方だった。
「ミッチー何やってんだ負けんな!」
「うるせ―――っ!黙ってキソやってろ!てめーは!」
「頑張れ楓ー!」
「お前も黙ってろ!!」
流川が高さと速さと強さを兼ね備えた男だということは三井も知っている。
だが今の流川はそれだけでないことがひしひしと感じられた。
今までにはなかった何か。
内からほとばしるような何かが流川に芽生え始めている。
しかし三井とて後輩、それも1年生に負けるわけにはいかないプライドがあるのだ。
刹那。
「抜いた!?」
三井を抜いた流川にが思わず歓喜の声を上げた。
「イヤまだだ!」
宮城の呟きがの耳に入る。
それでもは流川の勝ちだと思った。
「まだあめえっ!!」
とびあがった三井が流川のシュートコースを完全に塞ぐ。
けれど。
「な…!!」
三井の驚きはゲームを見ていた人間全員とシンクロした。
「勝っちゃった…楓が、三井さんに…」
ぽそりとしたの呟きは三井にもバッチリ聞こえていて三井の心を鋭く刺した。
「そーだ、おめーのオフェンスからだったよな、まだ俺のオフェンスが1回残ってるじゃねーか」
はっと思い出したように言う三井に呆れて流川は溜め息を吐いた。
「ラストね…」
「わかってら!」
放り渡されたボールが三井に渡った途端、流川の構える間もなく三井はボールを投げてしまい。
それは綺麗な弧を描いてゴールへ吸い込まれた。
「勝―――利!!3対2で俺の勝ち!!」
わははははと笑う三井に流川の額に青筋が浮かぶ。
「ヒキョウ!」
「汚ねえ…さすがに!」
「いやー今のはなしでしょ」
順に桜木、宮城、が冷や汗を流して一言突っ込みを入れた。
本人がちっとも悪いと思っていない辺り余計にタチが悪い。
高笑いするさまはまるでヒーローアニメに出てくる悪役だ。
流川の主張するに三井が線を踏んでいたため2対2で同点だから延長しろと言うのだが三井は一向に応じず。
桜木の判定により三井の勝ちとはなったが明らかに贔屓である。
その上流川と桜木が1ON1で勝負という流れになるのだが、は何故そうなるのかサッパリ判らなかった。
先に後輩達を帰らせると体育館の扉を閉めて三井と宮城は扉の外、その場に座り込む。
いつもは馬鹿な言動が多く桜木とも同レベルで喧嘩ばかりしている所為で判りづらいが、元々この2人は面倒見の良いいい兄貴分の器なのだ。
は壁に背中を預けると今日の練習のスコアへ目を通す。
「なんで…?」
後輩を帰らせた木暮が3人に問う。
「みんなの見てる前じゃショックもでかいだろーからな…」
「特にあいつの場合」
「変に士気を落とされたら困るからね」
「え……てことは…」
しばらく沈黙が場を支配したが流川が体育館の扉を開けて出てきたことで静寂は破られる。
「流川お前のことだ、情をかけたりは……」
「まさか」
「やっぱりな」
その一言が全てを物語っていた。
「おい」
「え?」
10歩程度歩いた辺りで流川は肩越しに入口で立つに声をかける。
「帰らねーのか」
「あ…まだ片付け残ってるから」
「先帰るぞ」
「ん、」
姉離れが出来ているのかいないのか。
にはよく判らなかったが、ともかくも今は体育館で放心している桜木が先だ。
が桜木に声をかけようとすると、それは肩を掴む三井に遮られた。
「俺達も見ない方がいい」
「自分から出てくるまで、待っててやりましょーや」
「桜木は俺達で何とかすっから、は残りの片付けやってろ。終わったら靴箱な」
「え?」
「え?じゃねえよ、お前一人で帰らせられっか。送ってくから待ってろ」
一瞬キョトンとした表情を見せるが、言葉の意味を理解すると柔らかな笑みを浮かべる。
部室の鍵だけは木暮に頼むとは一足先に着替えに部室へ向かった。
星が多い夜だ。
はそう思い真っ黒に塗り潰されたキャンパスの様な空を見上げる。
―――多分、個人技なら楓の方が上でも団体戦・総合技なら三井さんの方がまだ上だろうな。
は今日の1ON1を見た限りでそう理解している。
流川の欠点は強い相手と対峙すると1対1の勝負しか眼中になくなるプレイスタイルにある。
流川の場合、1対1もチーム戦もプレイスタイルが同じなのだ。
対して三井は相手によってディフェンスを使い分ける器用さとパスを送るのに必要な視野の広さもある。
時折、自分で全てを背負おうとする癖もあるけれど。
元エースだった性質が根強く残っているのだろう。
結局、陵南戦の後からあの時のことについてはお互いに一切触れていない。
衝動的な抱擁だったが、あそこまで異性と密着した身体的接触は流川を除くとは初めてだった。
男女のそれというよりも、どちらかと言えば母親が泣く子をあやすようなあれだったけれども。
三井が好きだ。
しかしそう自覚したところではどうすればいいのか判らない。
おそらく流川に対する『好き』とは種類が違うのだろうとは思うけれど。おそらく、恋愛感情だとも思うのだけれど。
好きだからといって独占したいわけではない。
付き合いたいわけでもない。
は今の『チームメイト』という関係を気に入っている。
この関係が崩れた時に出来上がる新たな『関係』をが好きになれる保証はないのだから、今の関係を壊す勇気も度胸もにはないのだ。
元々、“変化を望まない”人間なのである。
「わりー、遅くなっちまったな」
エナメルの鞄を肩から下げて履き慣れていないらしい割と新しめな靴を履きながら三井は軽く謝った。
「ほら、帰ろーぜ」
座り込んでいたに手を出すと三井が笑って言う。
三井の背に満点の星空が広がっていて、は明日は晴れるだろうと思いながら柔らかく笑った。
やはり今はまだ、この距離感が丁度良い。
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三井(置鮎声)の「たまんね」がたまんねく好きすぎる。