私はあの方の側にずっとある。
だから彼女の考えていることはなんとなく解るのだ。
おそらく傲りではないと、思う。


Dark red −彼岸花―
Part1.04 紅狂い



誰かが寮の階段を上って来る足音がする。
荷物と一緒に鞄ごとこの部屋へ運ばれた私は、鞄からは逸脱し部屋の中を這い―――今は窓枠へ張り付いて、その規則的な音を聞いていた。
私は今、グリフィンドール寮と云われるらしい搭の最上階に位置する部屋に居る。
足音はこの部屋の前でピタリと止まり、やや時間を置いてからドアは開かれた。―――なんと間抜けな表現だろう!
しかし私は博識な主人と違ってこれ以外に表現の仕方を知らなかったのだ。
部屋へ足を踏み入れたのはやはり、私の仕える麗しい我が主であって私は僅かに安堵する。
この姿を他人が見てどう思うかなど想像もしたく無かった。
邸を出る前に目立つなと釘を刺されていたから尚更である。
何せ今の私は―――蛇なのだ。
比喩でも何でもない。私は正真正銘、蛇の化身なのである。
主はふらふらと足を動かし倒れる様にベッドへ沈みこんだ。
随分疲れた様子である。また人酔いでも起こしたのだろう。
我が主の人酔いの悪さは天下逸品と知る人ぞ知る。
視線を暫く宙へ漂わせ、そのうち紅い瞳が私を捕えた。私が、蛇の姿が主の眼へ映る。
私は紅へ吸い込まれた。
無論―――錯覚に過ぎない。思い込みだ。
変わらず私の姿は我が主の瞳へ映っている。揺らぐことはない。彼女は生来瞬きの回数が少ないのだろう。
形の良い唇が動き、そして、

「黒翼」

私の名が呼ばれた。
途端、私の躰は歓喜する。
主の呼ぶ、主のつけた名。
それこそが私の存在理由。私が私である所以。『黒翼』を我が主へ縛りつけてくれる甘い言霊。
私の身体が変貌を始めるのが分かった。
まるでのびをする様に背が弓なりになり、背骨が発したバキバキと言う音が聴覚を刺激する。
窓が勢い良く開いて冷えた夜風が雪崩れこみ私の身体へ纏わりついた。
主が一度瞬きをする。
そこにはもう―――蛇としての私はない。
代わりに、“人間”へと変わり果てた忠実な僕の私があるだけだ。
黒髪黒服、機械地味た銀の瞳。主は私のこの姿をそれなりに気に入ってくださっている。
それは喜ばしいことなのだが本邸に人間体でいると当主の秘書―――という名目で置かれた後妻狙いの女―――にまでどういう訳か気に入られているようで、少々煩わしい。
主はその女へ対し一抹の興味も抱いていないらしいので私としては極力関わりたくは無いのだが我が主の立場を考えるとそうも言っていられず、結果私は最小限主の前で以外この姿へならないよう心がけている。

音を立てずベッドへ近づいて主の頬をそっと撫ぜると、きめ細かな肌の感触が手袋の薄布越しに伝わる。
冷たく細い艶やかな黒髪が一房はらりと落ちてきたので指で掬い払いのけた。
「座れ」
柔らかな唇が動き命令が発せられる。その内容は言葉だけ聞けば私を気遣ったようにも聞こえるが、決してそうではないことを私は知っていた。
話をする時は決まって人―――であろうがなかろうが相手の目を見据える方だから、私と顔を合わせる為に上向きにしていた首が痛みだした性為だろう。
きっと今は自分が起き上がる気分になれないのに違いない。
でなければ自ら体制を整えて話始めるだろうに。
疲れているのだ。
「失礼」
ベッドの前へ跪き我が主と目線を合わせると、主―――・嬢は、落とす様にぽつりと「疲れた」と言った。
「人の多い所は苦手だ…慣れない」
「そうでしょうね。貴方のソレは昔から…云わば体質的なものでしょうから諦めた方がよろしいのでは?」
「……」
瞼が下ろされると長い睫がふるりと揺れる。
主が私から顔を背けると白く細い首が露にされた。
私は晒された項に噛みつきたい衝動を抑え―――命じられた事の期限を失ったと解釈し、主の横たわるベッドへ腰を降ろした。
男一人分の質量を増やしたベッドのスプリングがギシリと音を立てて軋む。
「…何故だろう」
「何か?」
「怒らせてしまった」
そんなつもりは無かったのに―――と続きそうであるが、相手側にしてみればよくもぬけぬけと―――と返される事請け合いの状況下であったろう事が容易く察せられる。
けれど我が主の其れは詭弁でも何でもない。
彼女には―――『怒』の感情が欠落しているのだ。
故に―――他人の其れも理解不能の域なのである。
責められる事ではない。否、責めてはいけない―――。
殴られた経験のない人間が他人の痛みを解る筈がないのだから。
『怒』を識ってはいても知ってはいない。
そのかわり、何色にも染まらぬ深い『哀』を誰よりも良く知っていた。
だから―――なのか。
哀しみにくれる、とまではいかずとも心を痛めている彼女の瞳は何よりも儚く美しい。
けれど対照的に、もし怒りや憎しみを覚えたならば、きっとそれは―――燃え盛る業火の様な紅で、攻撃的に綺麗なのだろう。
「黒翼」
私は一瞬肩を震わせた。
「はい」
「喉が乾いた」
「冷えた水をお持ちしましょう」
私は腰を浮かせ立ち上がろうとしたが、思っていたよりも私の指は主の黒髪から離れ難かったらしく、動きは酷くゆっくりとしている。
漸く私と嬢の躰が完全に離れた頃、私が瞬きをすると彼女の身体とベッドに赤い花びらが舞い散っていた。
私は吃驚し彼女の頬の花びら(匂いや形からして薔薇の花弁かもしれないが私は植物になど詳しくないので違うかもしれない)を取ろうと再び指を伸ばしたが、瞬きをした刹那、花弁は消え去っている。
どうやら私の幻影だったらしい。
今度こそ水を取りに行くため冷蔵庫へ歩みよると、

「黒翼」

主に呼ばれた。

「―――私はおかしいか?」

私は狂いなのか―――?

過去の映像が嵐がかって重なる。
「いいえ、貴方は正常ですよ」
「…そうか」

紅、紅、紅、
貴方の身体の中に皮膚の下に流れる赤が、私を狂わせるのです。


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下僕視点。
自らの異常性に何となく気付いている。
(2007.1.6)

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