「ふけ」と楓が差し出した煙草の押し付けられたボールに三井さんが唾を吐きかけた時、私の中の何かがプッツリと切れた。
これは何だ。私に対しての挑戦か三井さん。殺るなら殺ってやるぞ三井さん。
私の体が前進するまえに、背後から小暮君に抱きしめられる様に止められた。
「離せ小暮君。殺ってやる」
「さっきから漢字が違うぞ!頼むから抑えてくれ!」
私と小暮君が話している間にも向こうは向こうで進んでいるらしい。
気が付くとヤス君が三井さんに殴り倒されている。
「「ヤス!!」」
「安田さん!!」
顔面を血まみれにしてうめくヤス君に、私はようやく我に返った。
一人の感情のままに怒り、周りが見えていなかった。
私は何をしてたんだ。
それから、何をすべきなんだろう。
「許さん」
「あ?」
三井さんの前へ立ちはだかる楓に、とりあえず私のしなきゃいけないことは楓を止めることだと思った。
刹那。
「楓ぇ!!」
卑怯にも背後から、楓の脳天にモップの金具で打撃が2発。次いで腹部に拳が3発。
頭から大量の血を流す楓に私は声が出せなかった。
それだけの攻撃を受けても尚立ち続ける楓に、相手の男が「タフだな」とさらなる攻撃を加えようと拳を構える。
けれど、その拳が繰り出されるより早く、楓の一発が男の腹にきれいに入った。
楓の打撃はただでさえ重いというのに、体育館とバスケットボールを汚されたことで、威力2割り増しはカタイ。
案の定相手の男は飲み込めない唾液を口端から垂れ流し腹を抱えて蹲る。
「どあほうが」
顔を濡らす血液を手の甲で拭う楓は綺麗だ。
02:籠球のクライング 2
「る……流川…」
「やっちまった…あのバカ…」
「か、えで、」
流川の行動に部員は呆然となった。当然である。
こちらも手を出してしまった以上大会出場停止処分を受けたとしても文句を言う事は出来ない。
「やりやがったな!!ははははは とうとう手を出しやがったな!!
これでお前らも…ほ!?」
耳障り。
流川はそうとでも言う様に三井の顔を殴り飛ばした。
最早手加減も何もない。
「切れてる…」
呟くように言ったの言葉が耳へ届いた宮城は慌てて流川を制した。もう遅い、なんてことがないように祈りながら。
しかし現実は残酷に過ぎなくて。
「やめろ流川!!こらえろ、よせ――っ!!」
「こいつらが悪い」
流川がガッと三井の長い黒髪を掴むと、横から蹴りを入れられる。
そんな蹴りは流川にとってまったく痛みを伴なかったのだがすぐ繰りだされた腕をとりあえず止め掴む。
元々握力に限らず運動能力のずば抜けている流川だ。
握った手に力を込めると、掴まれている男が「折れる折れる」と騒ぎだす。
こうなった流川を止められるのは、この世には一人しかいない。
流川が唯一心の底から慕う女にしか。
「よさねーか流川……「やめなさい楓!」
はそっと流川が握っている腕に手を添えた。
途端腕にかけられていた圧力に似た圧迫感が弛んだのを男は感じる。
「大変なことになるわよ」
「アヤちゃん!」
「先輩……」
「手を、離しなさい。楓」
幼い子供に言い聞かせる時の様な柔らかさでが言うと、流川は大人しく腕を解放する。
昔から流川はに甘い。
事態は沈静が図られたと思われたが、流川が腕を折りかけた男が彩子を殴った事で宮城が暴走。
そして再度暴れ始めた流川の所為で、場は再び騒然となった。
「た…大変なことになった…大変なことに…」
「…うん、まあこうなるとは思ってたけどね、うん…」
赤木さんになんて言おう…とは頭を悩ませた。
ふと流川へ視線を戻したは顔面蒼白になる。
さっきから、この荒れ方をじっと奇妙な視線で見ていた鉄男とか言う男が、流川の背後で立っていて、
「楓後ろ!!」
首を太い腕で絞められて、堅い拳で頭に一発。
ゴドッと鈍い音を立て流川は体育館の冷たい床へ横たわった。
「か、楓!!」
が流川へ駆け寄ると、上から
「次」
と低い声が降ってきた。
次はお前の死ぬ番だよ、とは思った。
鉄男が側に立っていた角田を蹴りとばしたあたりで体育館の外がざわめきだした。
本来バスケをしているべき場所で血まみれの乱闘騒ぎを起こしていれば流石に誰とておかしいと思うだろう。
「ドア閉めて!!」
が叫ぶように指示を出すと、1年の石井が肩をびくっと揺らす。
鉄男の側に居るのは危険だ。の指示は、乱闘の事実を校内生徒から隠すのと同時に、そういう意図も含んでいた。
「ドア・窓・カーテン、全部閉めて!急いで!!」
「は…はい!!」
「ボッ、ボクも行きます!!」
それでいい。とにかく、鉄男の周囲から離れてくれれば。
「次…」
逃げ遅れていた潮崎に標的を絞った鉄男は、宮城の怒声など気にも止めずに暴力を振るう。
「いい加減にしなさい!!何考えてんのあんたたち!!」
「彩子ちゃん!?」
「あ、あぶないアヤちゃん!!出てくるなぁっ!!」
あまりに見かねて出てきたのだろう彩子に、も宮城も驚きを隠せなかった。
当然だが彩子に闘う力はない。
「小暮君ちょっと楓お願い!!」
「!?」
これで暴れる大義名分が出来た。
最初から我慢我慢と何度も自分に言い聞かせてきただ。そんな彼女を制することが可能なのは切れた赤木くらいである。
はすっと立ち上がって彩子を庇う様に後ろへ下がらせた。
「次は女か…?」
「なに不満?」
喧嘩の売り方買い方は十二分にわきまえている。長い黒髪を一つに束ねるその様に、小暮はゾクリとした。
側からは随分冷静に見えるだが、その実、恐ろしくキている。
小暮は何故か、チェッカーズの名曲である『ギザギザハートの子守歌』を思い出した。
真っ直ぐ睨み上げる強い瞳を持つ整った顔立ち、豊かに膨らんだ双丘、すらりと伸びる長い足。
舐めるようにそれらへ視線を絡ませると、鉄男は下半身がうずくのを感じた。
こういう気の強い女を無理矢理組み敷き嬲るのが堪らない。
「いい女だな…オレの好みだ」
発せられた科白に気絶しているはずの流川がピクリと反応したようだが、小暮の気のせいかどうかは判らなかった。
「俺も好みだ…」
「オレも…」
「え、なにこの流れ3対1?」
「やめろ…!!」
「小暮君、こんな格言を知ってるかい」
肩越しに見返りは小暮へ綺麗な笑顔を向けた。
いつもの、見慣れた綺麗な笑み。
違う。小暮は即座に否定した。
こんなにも冷たい残酷な微笑みを、小暮は見たことがない。
「『同じ阿呆なら殺らなきゃ損損』」
「そんな格言はない!…」
「て訳で小暮君、赤木さんへの言い訳よろしく?」
ふわり、と片足が床を離れ弧を描き鉄男の横顔にぶつけられる。
しかし素早く反応した鉄男に太い腕では右足を捕まれた。
小暮は背に冷水を流された感覚に陥ったが当のは眉一つ動かさない。
「いい脚だな…」
「そりゃどうも!」
鉄男に触れられた脚から悪寒が伝わってくる気がしたが、は捕まっている右足を軸に左足を振り上げ。
鉄男もそこは想定していなかったのかとっさに反応できず、の左足は遠心力を得、十分な威力で鉄男の頭部へ当てられた。
ゴツンと鈍い音を立て鉄男の蹴りとばされた様子に何人もが目を奪われる。
宙へ投げ出されたは一度バク転して体制を整える。
足が軽やかに床へつくが、息をつく間もなく背後から忍び寄っていた竜に長い髪を掴まれ。
ぐっと後ろへ引かれたは、殆ど跳ぶようにして竜へ回し蹴りをいれる。
横腹へ当たっただけだったのだが予想以上の重さに戸惑ったのも有り竜は体のバランスを崩した。
相手の隙を見逃すではない。間伐入れずに2撃目を腹へ押し込む。
後方へ飛ばされた竜は壁で背を強かに打ち付けた。
怒りを露にするわけでもなく。
愉悦に顔を歪ませるわけでもない。
あくまで無感情に。無表情に。
多対1という理不尽な状況を歯牙にもかけずは足を振るう。
その様は美しくもあるが、同時に見ていた人間に恐怖を覚えさせた。
ただの非力なマネージャーだったはずの女の喧嘩慣れした様に周囲の人間は言葉も出ない。
昔から変質者絡みで警察沙汰にもなることが多かったは、護身用にと父親の意向でカポエイラを習わされていた。高校へ入ってから教室自体には行っていないが、かれこれ8年近い経験のあるは喧嘩ならそこらの男達よりずっと強い。
小暮の腕の中で流川が静かに目を開ける。
正直にも自分の気持ちが判っていなかったのだ。
三井に戻って来て欲しい。
だけど三井を許すことなんて出来ない。
2つのベクトルがない混ぜになって、の心中を掻き乱す。
表面に表れない苛立ちをぶつけるようには三井達を蹴り続けた。
「あ…おい、流川っ」
のっそりと動き出した流川を慌てて小暮が制す。動いていい出血量ではないのだ。
小暮がから目を話した刹那、鉄男のぶこつな指が細いの首へ絡みついた。
「…、は……っ」
「ああ…いいカオになってきた」
片手で首を絞めあげの足が床から離れるくらいまで持ち上げる。
「離せよ」
とん、と肩に手を置かれ鉄男が振り返ると、立っていたのが誰なのか認識する間もなく顔面に衝撃が走った。
首が解放されるとの体は重力に従って下へ落ちる。
激しく咳き込むの喉をくすぐるみたいにして撫でるのは流川の指だった。
「楓…」
「どあほう。………!」
不意に流川はをきつく包み込む様に抱き締める。
一瞬は戸惑ったが、すぐに次いだ衝撃にその理由を悟る。鉄男の踵落としが流川の肩に入ったのだ。
流川が庇っていなければの顔半分は醜く腫れあがっていたことだろう。
その下劣な攻撃にとうとう宮城が黙っていられなくなる。
「てめーらいい加減にしろよ…オレをやりたいんなら俺にこい!!!
面倒くせーことしなくても勝負してやるぞ!!ああ!?ビビってんのか三井!!」
「なんだと!?」
また酷く場は荒れ始めていたが、には何処か遠くの音に聞こえる。
ただ、闘っている間に湧いた感情の処理に頭を悩ませていた。
相手の弱点を突くのは喧嘩の常套手段。
しかしは三井の左膝を見た途端、攻撃することを躊躇した。
『三井に帰ってきて欲しい』
その思いがあるから三井の体に出来るだけ危害を加えたくなかった。
バスケットをするためならば、それは大事な体なのだ。
(ずっと待ってたのに)
三井の方は、そんな『約束』などとうに忘れてしまったかもしれないけれど。
畜生、畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生!!
突然現れた『桜木軍団』なる第三者の介入に、三井は腹立たしくて堪らない。
こんな予定ではなかったのに。手を出したくても出せない宮城をぶっ潰して、ついでに忌々しいバスケ部もぶっ潰して、それで、今頃はその余韻に浸っている頃だった筈なのに。
水戸に殴られた頬が痛む。
「くそ…なんなんだてめえは…!バスケ部でもねーのに…関係ねーだろ、てめえには!!」
無言で殴り続ける水戸に少しの畏怖を覚えながら、それでも三井は立ち上がる。
バスケ部を潰す。
今の三井には、譲ることのできない執念だった。
周囲の冷めていく熱に比例するように、三井の燻っていた闘争心には火が付いてゆく。
にもかかわらず未だ三井は水戸へ一発も決めていない。水戸が強すぎるのだ。地元の不良連中から一目置かれていたのも頷ける。
殆ど一方的になってきた勝負に、乗り込んできた不良も後ずさった。
小暮の視線はひっそりと三井へ対して気がかりな色を伴い絡む。
と同じように、小暮も―――戻ってきて欲しいと。一緒にバスケがしたいと思っているのだ。
小暮には1年の頃から三井へ憧れの上を抱いていた。
バスケの才能がない小暮には、三井が羨ましくて仕方なかったのだ。
同時に、夢見ていた全国大会への希望が差し、心底三井を一緒にバスケがしたいと思った。三井でなければ駄目なのだと思っていた。
その三井は、今、バスケ部を潰そうとして体育館へ来て、結果水戸に殴られている。さながら人間サンドバッグのように。
「く…くそ…くそぉ………!!」
闘争意志の消えない三井の胸倉を水戸は掴んだ。
「もうバスケ部には関わらないと言え」
整った顔を修羅のような絶対さを持って凄ませ、水戸は言う。
「この体育館には2度と来ないと言え」
その科白を聞いた途端、膝上にのせた血まみれの流川を見て俯いていたが、バッと顔を上げた。
止めて。止めて。止めて!
いけない。
その言葉を、三井に言わせてはならない。
「さあ2度と来ないと言えよ。主犯」
呼吸を荒くした三井の拳が水戸の右頬へ食い込む。
「殺されなきゃわからねーのか」
側から見ている堀田には三井が何にそんなに拘るのかが理解できない。
宮城はもうボロボロで、とっくに昔の件についてはケリがついているというのに。
自分の前歯を折った宮城ではない。途中介入してきた桜木軍団でもない。自分を追い詰めている水戸でもない。
三井を動かす執念はバスケへの執着だった。
「ぶっつぶしてやる…!!!」
自分でも気付かないほど自然に、の体は動いていた。
顔中痣と血でいっぱいにして、呼吸を荒くしながらも三井の闘争心は途絶えない。もう勝利の見込みなど欠片も残ってはいないというのに。
水戸の拳打が三井から体力を奪ってゆく。
「バカヤロウ…」
低い声が上から降ってくる。
三井が顔を上げたとき、自分の前に立っていたのは、リーゼントの2枚目ではなく長い黒髪の女だった。
両手を控えめに広げて、まるで水戸を庇うように立つ。灰色の瞳に自分の姿が映っているのを見て、三井は愕然とした。
三井だって劣勢なのが自分だということくらい判っている。
それなのに、何故目の前の女は水戸を庇うように立っているのか。何故殴り合いを止めにきたのか。
三井にはまるで判らない。
ただ一つだけ判ることなら。
「もういいよ…もういい…」
最初の一言は少しだけ上目遣いで水戸へ。
だが、水戸にはそれが本当は誰へのメッセージなのか理解した。
(あーあ、まったくいい女だよ)
一回りも二回りも自分より小さい少女が、僅かに身体を震わせて自分の前へ立つ姿に、水戸は小さく溜息を吐いた。
「もういいでしょ…」
その言葉は、一見水戸を制す言葉のように聞こえて。
その実、三井へ宛てられていた。
見るな。
そんな目で、そんな真っ直ぐな目で、
俺を、
「ど………どいてろォ!!」
「!!」
手を払うときするように、三井は右手を投げ出した。
衝撃。
三井の指がの右頬を張る。
爪先が変に掠ったのか、の右頬に一筋のラインが出来、プツリプツリと血が滲み出す。
「………っと、」
衝撃で足がふら付いたのか後ろへ倒れ掛かったの身体を咄嗟に水戸が支える。
が自分の足で立つ前に水戸から彼女の体を請け負ったのは小暮だった。
「大人になれよ…三井…!!」
パックリと割れたの頬から、赤い雫がすっと一筋流れた。
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過去編はすっ飛ばす気満々です。