ふんわりとした布団に挟まれた中で穏やかに覚醒を迎える。
名残惜しいと思いながらもベッドから起き上がって体を伸ばした。それでも私の目はなかなか覚めてくれなくて、座り込んで空を見つめること数分。
ふとベルの止められた目覚ましを見て、私は嫌でもバッチリしっかり目が覚めてしまった。

今日は県予選の緒戦だ。

03:空缶のスターティング


「遅い!」
「だからごめんって!」
顔を真っ青にして呼吸も荒く肩で息をするに、赤木はまず怒声を浴びせた。
「いーじゃん間に合ったんだから!つか誰か、水…っ」
「…先輩、生きてます?」
彩子が自分の鞄から取り出したミネラルウォーターをへ手渡すと、は控えめに2口飲んだ。冷たい。
「珍しいですね、先輩が寝坊なんて」
「いろいろあったんだよ彩子ちゃん…」
ペットボトルを彩子へ返すと、はやっと呼吸と髪を整えてベンチへ腰掛けた。
市立の体育館はそれなりの広さがあるおかげで、体育館の中はさほど熱はこもっていない。
後半になってもっと人数が増えればまた変わるだろうが、今涼しくあることがには嬉しかった。
「…まあ、なんにせよ間に合って良かった」
「自分やれば出来るもんだと思ったよ」
「お前案外抜けてんだなー」
「黙りなよ差し歯」
「差し歯言うな!」
三井の口内にはきっちり3本の差し歯が入っている。
ついでに宮城の折れた歯の差し歯代も三井が支払ったらしい。三井にどうしても払わせてくれと頼まれたのだと、呆れたような口調で宮城が言っていた。
元々悪にはなりきれない男なのだ。
「ほっほっほ。全員揃ったかね」
「すみません安西先生…」
「試合に間に合って良かったです」
試合開始の3分前に集合する羽目になるとはも思っていなかった。
いつもと変わらぬ安西の対応には心底申し訳なくなった。


「さて…気合は入ってるな…行くぞ!!」
「おう!!」
まるで戦場に乗り込むようだ。ある意味間違ってもいないのだが。
「初っ端から三浦台とはキツイですね」
「…大丈夫だとは思うけどねぇ…皆頑張れー」
どこかやる気なく聞こえるの声は、耳どおりはよく不快感はないのだが入ったばかりの1年達に「既に諦めているのではないか」という不安を抱かせるに十分だった。
無論は負ける気などしていないし、本音を言えばまったく負けるとは思えなかった。
スターティングメンバーを聞いたときには首を傾げたが、安西にも何か思いがあるのだろう。
「おいオヤジ、またオレをいつまでも使わない気じゃねーだろーな!?」
「………」
「ぬ!?」
「キミ達はケンカしたからおしおきです」
「……!!」
「せ…先生…」
プイっとそっぽを向いてしまっている大の大人に、は椅子から滑り落ちそうになった。
怒っている。これは、判りにくいが、結構怒っている。
「おい!オヤジの奴怒ってるぞ!なんとかしろミッチー!!元はと言えばてめーが!!」
「この無礼者!安西先生にむかってオヤジだと!?」
「花道おめーはどっちにしろベンチだからいーじゃねーか。実力からいって」
「ああ!?何だとリョーちん!!」
立ち上がってギャーギャーと騒ぎ出す3人に彩子は呆れたような視線を投げ、は溜息をついて笑った。
この問題児軍団はなんというか元気が良すぎる。
いっそさっさと試合に出して体力を使わせたほうが良いような気もするが、この『おしおき』の狙いは今後のチームワークにあるのだろう。
一度こうして御預け状態にするのも、そういう意味では悪くない。
先輩と後輩にしては些か煩すぎる会話に、流川が溜息を吐いた。
「どあほうが3人に…」
「ぬ!」
「流川!!」
「てめえが最初に手ェ出したくせに!この短気者!!」
「えらそーに!!」
「てめー先輩にむかってどあほーだと!?」
「見えん」
「ちょっとケンカしてる場合じゃないわよあんたたち!!」
「アヤちゃん」
「あんただと…先輩にむかって…」
流川の呟きによってまたギャーギャーと騒ぎ出した問題児達に彩子が一括を入れた。
大分喧嘩騒ぎにも慣れてきたらしい。明らかに強くなっている。
プライドの高い三井は「あんた」呼ばわりが気に障ったようだが、実際彩子には何故か勝てないのだ。流川のときほど強く主張はできなかった。
「はいはい、試合に集中!今度ケンカした人間にはポカリ自費出費させるよー」
「あ、それいいですね先輩」
の思いつきの提案に彩子は賛同しかけたが、途端「あっ」と思い出したように表情を変えた。
「どーかした?」
「ポカリの量がビミョーなんですよねぇ…てっきりベストメンバーが出ると思ってたから…」
「じゃ私買ってくるよ。彩子ちゃんは試合のスコアお願い」
「すみません、お願いします」
「問題児たちはおとなしく試合見てなさいねー。特に桜木君とムッシュ差し歯」
「ぬ!!」
「差し歯言うな!」


目指すは自動販売機。もしくは売店。
パッタパッタと軽快な音を廊下へ響かせながらはそのどちらかを探す。
短くなった髪にはまだ慣れず、毛先が頬へパラパラ当たってくるのがくすぐったい。
それでも頭が軽くなった分動きやすくて、なんとなく嬉しい気持ちになった。
その上、今年はずっと夢に見てきた全国大会にいけるかもしれない。
そう思うと今試合に出ている部員には悪いと思うが頬が緩んでしまった。今はまだ劣勢の状況で相手チームも決して弱くはないが、は負けるはずがないと信じている。
「あ、」
前を歩く陵南ジャージの男を見て、は思わず声が漏れる。
190センチという長身でツンツン頭。は陵南でそれらに該当する人物は1人しか知らない。
「仙道君っ」
後ろから声をかけると、その男は足を止めて振り返った。それはやはりの思ったとおりの人物で。
片手を上げて挨拶すると、仙道もまたそれにならう。
「久しぶり。さん」
「久しぶりー。陵南は他校の偵察?」
「特に湘北のね」
「そりゃどーも。自販機知らない?」
「俺も今から行くとこだよ」
が仙道のところまで追いつくと、横に並んで歩き始める。
目的物を見つけると、は先を仙道に譲ってから自動販売機へ千円札を入れた。
『一本ずつお取り出しください』と表記の元、律儀には一本ずつ出してはお釣りの中から硬貨を出してまた入れる。
それを何度か繰り返した後、最後の一本を取るために腰をかがめようとしたがその前に仙道が取り出し口から出したポカリをの腕の中へ落とした。
「マネージャーも大変だな」
「そうでもないよ楽しいし。ありがとう」
「どーいたしまして」
仙道は缶のプルタブに指をかける。
パシュッと音がして冷気が白くなって外へ漏れた。
「随分思いっきり切ったね」
左手で仙道はの髪へ触れる。
以前会ったときは腰くらいまであったはずのの髪は、今は肩口で毛先が揺れていて。
「それも似合うけど」
「サッパリしたでしょ」
「…こっちの傷は?」
の右頬に貼られた絆創膏。
白い肌に対照的な茶色の絆創膏が痛々しい。
「ちょっとまあ、いろいろ」
「相手、男?」
「ビンゴ」
「…すげぇムカつくなあ……」
一瞬、仙道の顔が男のそれへ変わる。
しかしがそれに気付くことはなかった。
「は?」とがすっ呆けたような声を発すると、仙道はいつものように飄々とした笑みへ戻って。傷のある辺りをやわやわと撫でる。

まだ、出せない。

仙道は自分へ言い聞かせた。
フタを開けたポカリの缶が汗をかいて仙道の右手を濡らす。思い出したような素振りをへ見せることなく仙道はポカリを口へ運んだ。

「どうだ仙道…お前らを苦しめた湘北は……?」
「あっ」
背後からかけられた声は、割と聞き覚えのある低い声。
色黒で背の高い、しっかりと作られた体をしたオールバックの男。
「あんたは海南の…牧さん」
「よう仙道。…なんだ、彼女連れか?」
牧の視線が仙道からへと移る。
身長差が30センチ近くある所為か元来持ち合わせた存在感の所為か、は少し萎縮してしまった。
怖い、とは思わないけれど。今にも取って食われるのではないかと思わせるな肉食獣の様な雰囲気がある。
流石王者海南大の帝王と言うべきか。
不快ではない緊張感に、は条件反射でにこ、と笑顔を作る。
「違いますよ。湘北のマネージャーです」
「初めまして、です。…えと、同い年……?」
「…海南大3年の牧だ。よろしく」
高校生と見られなかったことに牧は少なからずショックを受けたらしい。
不思議なことにそうして落ち込んだ様子を見せる牧はさっきより年相応に見えて、は目をきょとんとさせてしまった。隣では仙道が声を押し殺して笑っている。
直後、大きな歓声がホールから響いて聞こえた。
「何だ…?」
「………湘北の反撃が始まったかな…」
「うっそ、メンバーオールチェンジかなっ?じゃ仙道君またね!失礼します!!」
「転ばないよーになー」
ポカリ数本を抱えて走るには少しにとっては無理がある。
急ぎ足で自動販売機を後にしようとして、思い出したようには足を止めた。
「牧さん!」
くるりと華麗に振り返って凛と通る声で男の名を呼ぶ。

「余計なお世話かもしれませんけど、前髪は下ろしてた方が格好良いと思いますよー!!」

黒髪がふんわりと揺れて。
作り物ではない笑顔を向けられて。

ペコリとお辞儀をすると、は今度こそホールへ走っていった。
呆然と走り去った後を見つめ続ける牧に、仙道は隠そうともせずククッと笑う。
「さんの助言は聞いといた方がいいと思いますよ。あの人的を射たことしか言わないから」
「……彼女、お前の何なんだ?」
「美人でしょ。友達です。そのうち彼女になってくれればいいなーなんて下心アリのお付き合いですけど」
にこにこと笑顔を崩さない仙道に牧は肩をすくめた。
「お前は本気なのか冗談なのかよく判らないな」
「俺は最初から最後まで本気ですって」
じゃー俺もスタンド戻りますね、と仙道は飲み終えた空き缶をゴミ箱へ放り投げた。


結局その日、湘北は決して弱くはない三浦台高校を相手に114対51で圧勝、2回戦進出を決める。


   
主人公は『差し歯』呼びがお気に入りらしい。