豚肉。人参。ジャガイモ。玉葱。インゲン。
「…何故どれもないの…!!」
シャワーを浴びてから冷蔵庫及び野菜保管所を見て私は吃驚した。
特にジャガイモと人参と玉葱。
この3種の神器とも言える野菜を欠けさせている家を私は未だかつて見たことがない。
まさか自分の家で体験することになるとは思っていなかった。
兎にも角にも、肉じゃがを作るためにはどれもこれも必要不可欠な物で。
「さっさと買ってこい、どあほう」
楓の冷たい言葉に追い出されるように、私は玄関を出てしまった。

05:夜道のタッチング


「…もうここには2度とこねぇと思ったけどな…」
三井は自重気味に呟いて今しがた出てきた野口総合病院を見上げた。
もうこの病院に過去の姿を見ることはない。己の完治した膝をくすぐったいような気持ちで眺めると次の試合へ挑む思いが沸々と湧いてくる。
超シード校の翔陽高校に勝てば決勝リーグへの進出が決まるが、全国常連校だけに湘北の勝利は容易ではなかった。
しかし。その不利的状況すら三井には楽しむ余裕を持てる。
それは自信か慢心か。もしくはその両方か。
「…三井さん?」
凛とした声に振り向くと、スーパーの買い物袋を提げたマネージャーが窺うような視線を三井に向けて立っていた。
声を掛けた男が三井だと判ると、ほっとしたように顔を綻ばせて駆け寄ってくる。
三井にならって病棟を眺めると「膝?」とぼんやり呟いた。
「まだ通院してるの?」
「いや、治った。今日は検査しにきただけだ」
「そっか…良かった」
三井の右横に並んだの買い物袋からじゃがいもと人参が覗いて、三井はこの間の流川との会話を思い出す。
「今夜はカレーか?」
「残念外れ。肉じゃがです」
「ちゃんと食えるモン作れんのかよ」
「失礼だなぁ。これでも主婦歴8年だけど」
お前の本業は学生じゃないのかと言いかけて止めた。
「そういやお前ん家父子家庭なんだっけ」
「おかげで父親から溺愛されてしまって大変」
「…?でもそんな感じしねーな、オメー」
「甘やかされてたけど自立も求められてたからかも。家事一通り覚えたのも10歳くらいの頃だったし」
「…マジで?」
ちなみに三井は自分の部屋の片付けさえまともに出来ない。
「いつでも嫁に行けんな」
「はは、三井さんもらってくれる?」
「ハハハ、勘弁してくれ」
「酷いよ」
いざとなったらアテはあるからいいけどね、とぼやくに三井はケラケラと笑った。
誰だそりゃ物好きな、と言おうとしてまた止める。
何となく流川のような気がした。
冷たい風に乗ってふわりと香るシャンプーの匂いが三井の鼻孔を刺激する。
の黒髪に手を伸ばすと細い絹糸の様なサラサラとした感触が指へと伝わって、それが湿り気を帯びていることに漸く気付く。
シャワーでも浴びた後なのだろうか。
一瞬にして霰もない想像を膨らませてしまう件については年頃の健全な男子高校生の生理と容赦していただきたい。
頭をよぎった妄想を誤魔化すように三井は乱暴にの首根っこを猫みたく掴み、自らの方へ引き寄せて自身の左隣へ並ばせた。
「お前はこっち」
さりげなさの欠片もないが一応紳士精神はあるらしく車道に面した道の方を三井は歩く。
大きな瞳を真ん丸く開いては三井を見上げた。
「…意外に紳士?」
「うるせ」
まるでからかうように言うに三井は眉を潜める。
「大体オメーは…」
小言を続けようとしたが、三井は側を横切ったバイクの音に反射的に振り向いた。
ブレーキを掛けたことによって発生したタイヤとコンクリートの摩擦音が耳を劈く。
バイクの男も道の脇にバイクを留めてこちらを振り返っていた。
「鉄男…」
「三井…か…?」
先日三井とつるんで体育館を襲撃して下さった鉄男だ。


「なんだその頭は。スポーツマンみてーだな」
咥えた煙草に火をつけると、鉄男は到底高校生とは思えない顔でニカッと笑う。
「ま……そっちの方が似合ってるよ、おめーには」
「鉄男…」
遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。
その音はだんだん近付いてくるようで、鉄男はそのことにいち早く気付いて。
「ヘルメットってのがキライでよ」
どうやらノーヘルで警察から追われているらしい。
素早くバイクへ跨ると横目で三井へ視線を寄越し、
「じゃな。スポーツマン」
激しい音を木霊させネオンで彩られた夜の道路を駆け抜けていった。
その背をパトカーのサイレンが追いかけるが、きっとまた撒かれてしまうのだろう。

「じゃあな…鉄男」

それは単なる別れの言葉ではなく、三井なりの過去との決別の意を含んだ。
勝手に体育館襲撃を提案しておいて勝手にバスケ部へと戻った三井を責めることもなく事を収拾づけてくれた感謝も込めて。
「…いいの?」
友達なんでしょ?と三井を見上げるに三井は憑き物が落ちたように晴れやかな笑みを返す。
別れを告げた後にして思うと本当に過去の頃のは憑き物となって重くのしかかっていたような気がする。
勿論完全に落ちたわけではないし、これからも昔の記憶は三井へ後悔させ続けるのだろうけれど。
「いいんだ」
それでも、もう振り返らずに進める気がして。
「夜はまだちょっと冷えるなー」
髪の短くなった慣れない頭を、確かめるように三井はぽんぽんと叩いた。
そして髪を短くした張本人を見下ろすと、冷えた風に黒髪が揺れて、露になった白い左頬が夜の闇にふわりと浮かぶ。
そこには先日まで貼ってあった絆創膏の姿が消え、代わりに横一本細長い傷が痛々しく三井を責める様に主張していた。
傷口は綺麗に塞がっていたが、傷跡は綺麗に残ってしまったらしい。
三井はポケットに入れていた手を伸ばしてそっとその傷へ触れた。
不意に触れられて吃驚したのか三井を見上げるに、三井は灰色の瞳から逃れるように目を伏せる。
後ろめたい気持ちがとにかく強かった。
残るような傷を付けるつもりではなかったし、三井自身あの時は驚いてしまったのだがそんな言い訳をする気は、ない。
「…痕、残っちまったな」
指の腹で傷に沿って撫で上げると、決して小さくないその大きさが現実味を持って三井の胸を潰す。
滑らかな肌に歪な感触の走る様が妙に悲しくて。淋しくて。
傷つけられた本人より、傷つけた三井の方が傷ついた様な顔をしていて。
(…それは、反則でしょう。三井さん)
決まりの悪そうに眉を顰め口先を突き出して斜め下を見る三井に、はにっこりと微笑した。
よく体育館でも教室でも浮かべる綺麗な綺麗な笑顔。
「あのさ、そんな顔しなくていいよ?三井さん」
困ったように言うに、三井は伺うように、けれど少し安堵したように顔を上げてを見る。
吸い付くような肌から指を離せないでいる三井は、自分で思っている以上に自分が馬鹿で浅はかであることに気付かなかった。
男の顔の傷なら勲章。
けれど女の顔の傷は請求書。
誰が言ったのか知らないが豪く上手いことを言う。
「…わりぃ」
ああ、やっと言えた。
喉に張り付いた一言を発することがこんなにも体力と気力を要するものだったとは。
「だから、別にいいって」
ヒラヒラと手を振るに、三井は今度こそ安堵して溜息を吐いた。
怖かったのだ。今まで、復帰してからずっと。
三井の目に絆創膏が映る度。部員の視線を感じる度。それから―――訳隔てなくが三井に接してくれる度。

「許さないから」

何を言われたのか判らなかった。
綺麗な笑顔を浮かべて、よく通るアルトの声ではっきりと耳に届いた言葉の意味を最初は理解できなくて。
「…は…?」
「謝ってくれなくてもいいし、罪悪感とかも感じなくて良いよ。何してくれても許さないから。三井さんも私が結構蹴ったこと許してくれなくて良いし」
の崩れない笑顔が怖い。綺麗で完璧な笑顔がひたすらに怖い。
三井は背中に冷水を流し込まれた気がした。
一回りも二回りも大きい三井の骨ばった手の上からは指でトントンと傷のある場所を叩いて言う。
「こっちはともかく、楓を傷付けられて他人を許せる程寛大な人間じゃないから」
三井を真っ直ぐ見据えて話す様子に三井を責める色はない。
しかしの灰色の瞳の強さが三井の心を抉るようで。

「…でも、」
頬に触れたまま硬直したかの如く固まってしまった三井の手をそっと剥がして、
「三井さんが戻ってきてくれたのは嬉しいよ」
ふわり。と、目を細めて微笑んだ。

許す気はない。けれど責めることはしない。

「さっきから思ってたんだけど」
俯く三井には溜め息を吐く。
「三井さんって、凄く静かに触れてくるんだね」
ひんやりした細い指が三井の頬を撫ぜて、三井はゾクリと首筋にしびれが走った感覚に驚いた。
顔を赤く染めて三井は半歩後ずさる。
その様子に堪えられなくなったは吹き出して笑った。
「笑ってんじゃねえぞ!おい、!」
「三井さん、顔、真っ赤…っ!ふ、ふふ…っ」
「てっめェ…!」
目の端に涙を浮かべながら笑うに、不愉快な思いをしつつもどこか救われる気がしないはずがない。

「じゃ、翔陽戦頑張って」
「当たり前。ちゃんと見てろよ!」
買い物袋を揺らしながら駆けてゆく小さな後ろ姿を見ながら、三井は熱を持つ頬をカリカリとひっかいた。
少しは赤みも引いたが、このまま家に帰れそうにもなく歩道のガードレールへ腰掛ける。
夜道の上に輝く星だけが、そんな三井を嘲笑うようで。
「…ヤベェ」
に触れられた時、本気で―――欲情、してしまった。
突き放された後だったと言うのに。
たった、触れられた、というだけで。
三井は童貞ではないし女性を抱いたことも両の指では足りない程で、胸元開いた魅力たっぷりの女から誘われたこともあったけれど。
匂いを感じて。触られて。笑顔を向けられて。それだけで欲に駆られたのは初めてだった。
だから欲情したのだ。


   
KOIにおちた。