翌日、隣の席の人は驚く程大人しかった。
それもそうだ。
だって、朝から―――爆睡してるんだから!
一番壁際の席というのがせめてもの救い。確かに昨日は最強との一戦だったんだから仕方ないのかもしれないけど。
ぐーぐーと寝息を立て眉間に皺を寄せて眠りこけるその様は可愛いとは程遠いが、それに近い感情を私に覚えさせる。
(…何とかほど可愛いってヤツなのかな?)
私は溜め息を吐いて三井さんを見やる。今はそんなにドキドキしたりはしない。
けどこんなにじっくり三井さんの寝顔を見れるとは、なんとも新鮮な気分だ。
こうして見ると、1年の頃とは大分人相が変わったと思う。
昔はもっと可愛い雰囲気のアイドル顔だったのに。
今ではすっかり『男』って感じになっている。
顎の疵も、入部当初はなかったはずだ。これはリョータとの喧嘩の名残かもしれない。
頭が時折カクンと下がったりするのがおかしくて、思わず笑いが溢れた。
仕方がない。今日はこのまま部活まで寝かせてあげよう。ノートは…後で見せてあげればいいか。
…ということは私は全部黒板をとらなきゃならないのか?
その前に先生に見つかったらどうしよう。まず怒られる。だって教科書開いてすらいないし。
私は先生が黒板を書いてる隙にこっそりと教科書を机の上に立てておいてあげた。
「あー…じゃ次の問題、誰か…」
誰かって誰だ先生!
勿論誰の手が上がることもない。
何故なら前に出て書くのは非常に面倒だからだ(証明問題なら尚更)。
「何だ…誰もいないのか?じゃあ三…」
「先生私やります」
「お…そうか、んじゃ」
予習しといて良かった(てか狙ってないかこの先生)(さっきから視線が痛いんです主に先生からの)。
08:隣席のスリーピング
「三井さん、起きて三井さん」
身体を強く揺らされる感覚に三井は煩わしそうに眉を寄せる。
誰だよ起こすなよ
誰だよじゃないよ部活だよ
ほっとけよ眠いんだよ
早く行かないと赤木さんに怒られるってば!
「三井さん!」
いっそう強く揺らされて三井の意識はとうとう覚醒した。
ぱちぱちと2・3度瞬きをして、机を挟んで正面にが居ることに気付く。
そして同時に、彼女が覗き込むような態勢で自分を見つめていることも。
「…起きた?」
「うおっ!?」
思わずのけぞってしまって椅子ごと後ろへひっくり返りかけたが三井はギリギリのところで踏ん張った。
「おはよー。よく眠れた?」
「ああ。今何時だ?」
ガシガシと乱暴に頭を掻く三井にはクスリと笑い鞄を抱えて立ち上がる。
「三井さんてさ、ちょっと上唇厚いよね」
自身の唇に指をあてて話すが妙に嬉しそうに見えて三井は気恥ずかしい思いになりながら自分も立ち上がって鞄を肩にかけた。
まさかずっと寝顔を見られていたのだろうか。
そう考えると穴があったら入りたい気分になる。
「さては俺に見とれたな」
照れを隠すように軽口を叩けば「そうだね」と笑って返される。
こういうあしらい方がなんとなく大人な様に感じられてなんとなく悔しい。
とりあえず次にの居眠りを発見した際には自分も心ゆくまで鑑賞してやろうと思った。
ささやかな復讐のできる日がいつか訪れる予感はほとんどなかったけれど。
部室へ入ると既に先客の木暮が着替えていた。
「こんにちはー」
「よお。眠そうだな木暮」
「やあ、三井は元気そうだな」
「それは朝からずっと寝てたからだよ」
他愛もない会話を交しながら自分のロッカーを開けると三井はシャツのボタンへ手をかけた。が、その手を思わず止めた。
真後ろで服の擦れる音がする。
この部室には今三井を含めて3人しかいない。
木暮は少し離れているが横で着替えている。
とすれば、後ろで着替えているらしい人間は一人しかいない。
早鐘の様に鼓動を刻む心臓に気をとられながら三井はゆるやかに行動を再開した。
落ち着かなくて顔が赤く染まっているのが自分自身でも良く判る。
それはそうだ。何せ好きな女が手を伸ばせば届く距離で堂々と着替えているのだから。
こういう状況に出くわすのももう両手で足りない回数になるが未だに慣れない。
パサリとシャツかスカートかが床に落ちた音がした。
そのリアルで鮮明な音に三井の、健全男子高校生の想像力は掻き立てられ脳内でのあられもない着替えシーンを想像してしまう。
見たい。本音を言えば物凄く見たい。いますぐ振り返ってしまいたいくらいだ。
しかし人間の理性というものはなかなかに強固なものらしく過ちを犯さぬままの着替えは終了してしまう。
安心すると同時に少しの残念に思う気持ち。
健全男子の心は穏やかでない。
木暮やと一緒に部室を出て体育館へ向かう。
が傍にいる。楽しそうに笑って。
それだけで三井には時間の流れが早く感じられて体育館の扉の前へ着いたとき僅かに吃驚した。
惜しい気もしなくもないが、これでのことを考えることなくバスケに集中できる。
「チュース」
「ウース」
「どーもー」
そう胸を撫で下ろしたのもつかの間。
「声が小さァい!!」
「ぐお!?」
扉を開けた瞬間に三井と木暮は振り降ろされた様な頭上からの衝撃に襲われた。
三井は反射的に右手を伸ばしの体育館進入を制し何らの衝撃からを庇う。
その際に手へふんわりと柔らかな感触が伝わったが故意ではないので気にしないことにする。
「なな…なんだァ!?」
「はっ先輩…元気がないかと……」
殴った相手が先輩だったことに彩子も驚いたのか、「ヒャア」と小さく悲鳴を上げた。
さっと彩子の後ろに隠されたハリセンがの視界の端をよぎる。
「バカヤロウ、そう いつまでも落ち込んでられるか。あと2試合あるんだぜ」
不敵な笑みを浮かべて言う三井はどこか頼もしい。以前はチームをまとめて引っ張っていた経験もありカリスマ性は健在の様で。
「神奈川からは2チームがインターハイにいけるんだ。残り2つとも勝って2勝1敗なら、2位以内には十分入れる。落ち込んでなんかいられるか!」
後輩へ一喝入れながら現状整理を低い声で喉を通らせる姿はどこから見ても男前と形容するにふさわしく、はドキリと心臓が跳ねた。
「いいかお前ら、可能性がある限り諦めるんじゃねーぞ!!残り全勝でいくぞ!!」
元々リーダー気質の三井は雰囲気を盛り上げるのが上手い。
不良時代さえ無ければ後輩からも抵抗感を持たれることなくすぐに慕われたことだろうに。その点がにはもったいなく感じられる。
まあ、今では「2年のブランクがありながらあんなに綺麗なシュートが打てるなんて」とかえって尊敬されている様だが。
「ズイブン前向きだな……昔とちがって」
「うるせー!わかってんのかお前」
後悔の念が強いせいか三井はこの手の話題に敏感だ。
呟かれた宮城の言葉にも即座に反応して言い返す姿には浅く溜め息を吐いた。
「もちろんスよ。負けんのは1回で十分だ」
「ああ…そうだな…」
「そーよ!そこで!」
「うん?」
クルクルと筒状に巻かれた紙を取り出す彩子には疑問の声を上げ。
ギュッと壁に画鋲で止められた長い紙がその全貌を明らかにした。
「コレよ!」
どーんと効果音の付きそうなほど堂々とした『がけっぷち』の文字に部員は「おおお!」と感嘆と驚きの声を上げる。
『彩子書』と書かれている辺りちゃっかりした彼女の性格が表されていては可愛い後輩にを独特の視線で見つめた。
「あと1回でも負けたらそれっきり!!夏は終わりよ!!」
「その通りだ」
彩子の言葉に続けられた低い声に入口へ全員の視線が集中し、その先には赤木が松葉杖をついて立っていて。
「なんだお前それないと歩けないのか!?」
「まさか骨に異常が!?」
「赤木さんどうだったの?」
「ただの捻挫だ。心配いらん」
「そのツエは!!」
「土曜にはすぐ武里戦だからな。1日でも早く治すために借りてきた」
赤木の台詞と表情に部員達は活気づき「さすが不死身」だと赤木の丈夫な体を褒めはやす。
しかしこういうときに一番はしゃぎそうな人間の反応が見当たらず、周りを見渡して赤木は桜木の不在に気付く。
「桜木はどうした?」
一瞬場に沈黙が広がり、桑田の「今日は来てなかったみたいですけど…」という言葉に時間は再び流れ始める。
「まだあのパスを気にしてんのか、あのバカは…」
三井から蔑みの色を帯びない本来罵倒として使われる名詞を向けられた人間は、その頃公園のフェンスの前で涙ぐんでいた。
「さぁーファイトよ!残り2戦全勝よ!!」
桜木抜きでの練習はいつもより数段キツい。
残りの試合を勝ち越さないことにはこの夏は終わり、3年生である4人にとっては高校バスケットの終わりを意味することになる。
「オラ安田ァ!もたもたするな!石井!フリーだぞ!気合いを入れろォ!!」
「赤木さん、松葉杖の使い方間違ってる」
足の怪我により見学を余儀なくされた赤木は部員へ指導を入れていくが、松葉杖を振り回しまるで杖を指揮棒の様に扱っている。
安静にして座っていればいいのに。
そう思うが言ったところで聞き入れないことくらいは2年以上の付き合いになるのだから判りきっている。
は諦めた様に肩をすくめた。
「それにしても…」
彩子の視線の先を辿れば三井が居て、そのことにが気付くと彩子はニヤリと笑って言う。
「男らしいですねぇ、三井先輩」
「…?そうだね?」
今ひとつ彩子の言わんとすることが見えずは思ったままに返答した。
なんとなく、この顔は心底面白がってる顔だなと考えながら。
「さっきアタシがハリセンかましちゃった時、三井先輩とっさに先輩のこと庇ってたじゃないですか」
「…優しい人だから、三井さん」
「いや、あれは絶対先輩だからですって。愛されてますねー、先輩」
「愛され具合なら彩子ちゃんの方がよっぽどだと思うけど?ほら手ぇ振ってるよリョータ」
「バッ…集中しなリョータ!!」
ビシ!とハリセンで喝を入れる彩子を見ながらは彩子の言っていたことを反芻する。
本当にそうだろうか。
自分だから庇ってくれたのだろうか。
それともやはり、他の誰が相手だとしても三井は庇うのだろうか。
そんなことをうつらうつらと考えていたら、気付くと赤木が練習終了の合図を出していて体育館では片付けが始まろうとしていた。
彩子が三井の肩をポンと叩いて離れるのが見えたけれど、特に果たすべき用事があったわけではないらしい。
は急いでタオルを持って三井の傍へ駆け寄ると「お疲れ様」とタオルを手渡す。
を視界へ入れた途端元々赤らんでいた顔が更に赤く染まったが、はきっと彩子がまた変に意識することでも言ったのだろうとあまり気に留めなかった。
事実の思った通りだったのだが。
頭を冷やそうと三井はタオルを受け取って水道へ行こうとへ背を向けるが、突如背後から聞こえてきた会話に耳を奪われて。
「おい」
「、楓、なに?」
「…ちょっと遅くまで残るから、先帰ってろ」
「あ、うん。諒解」
「なら俺が送ってやるよ」
三井は思わずそう口走っていた。
あの時の二人のきょとんとした顔は忘れられない。
蛇口から頭を上げてタオルで軽く水滴を拭い、少しは冷めた熱を更に逃すように髪の毛をぐしゃぐしゃに乱した。
思い返すとまだ頬が熱ってくる。それを誤魔化す様にタオルで顔を覆うが、果たして誤魔化しきれていることだろうか。
「三井さーん、まだ?」
ひょこっと顔だけで中を覗いてくるはもう着替えを済ませてしまっているらしく三井の支度が整うのを待っていた。
「ああ?すぐだよすぐ!下駄箱で待ってろ!」
「じゃあ職員室に日誌返してくるから、下駄箱でね」
クスッと笑みを残してその場を去るのいつもより嬉しそうな態度に気付く余裕など今の三井にはなくて。
「…マジでヤバイだろ、俺…」
小さく呟くと三井はその場に下を向いて座り込んだ。
「三井先輩」
練習が終わると同時にツツツと寄ってきた彩子に嫌な予感をしつつも三井は「なんだ?」と返す。
「三井先輩って判りやすいですよねぇ」
「あ?何の話だよ?」
近くで宮城が何やら言っているがそんなことが気にならないくらいニヤニヤと笑顔を浮かべる彩子のことが気になって仕方がない。
「好きなんでしょう、先輩のこと」
疑問ではなく断定。
推量ではなく確信。
意味を理解するのに時間がかかったが言葉の指す内容に辿り着くと物凄い勢いで反応した。
「大体な、とよくいるのは同じクラ―――」
「三井先輩」
笑顔が怖かった。
「私、相手が先輩だなんて一言も言ってませんよ」
ハメられた。
絶句して呆然とする三井の肩を叩き、彩子は声をだして笑いながら言う。
「でもちょっと自重した方がいいんじゃないですか?最近先輩に対する三井先輩の視線ヤラシーですから、雰囲気的に」
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3年生4人が好き。木暮君と三井さんの組み合わせが特に好き。